昭和47年12月22日 朝の御理解





御理解第19節「金光大神は、形がのうなったら来てくれというところへいってやる。」



 疑うて聞いたら、このくらい疑わしい、御理解はないと思うですね。形がのうなったら来てくれというところに、んーいってやる。第一、その、人間が死んでから、先に、ね、いわゆる御霊の世界から人間の世界に来るとか来ないとかということが第一疑わしい。ね、えーそれは生神金光大神御在世の頃でも、ね、生きておられる間でも、やはり同じような働きはなさっておられた。ね、いうならば、あー日本のどこの果てから、生神金光大神を祈っても、ならご在世の時でもやはりそこでおかげを受けられたという事実がある。ね、岡山のいわゆる大谷というところに参らなければおかげは受けられないということはなかった。ね、だから本当いうたら、ご在世の時であろうが、形がのうな、あー亡くなられたからと、いうて同じことだ。ただ、形がなくなったら、ね、そこに目当てがなくなるから、金光様が亡くなられたらどうするだろうかと、みんなが心配するからこういうみ教えを下さったんだろうと思うです。ね。

 椛目時代に頂いた御理解の中に、とうと言う、いや、白という、色の深さや、とうの秋という、御理解があり、頂いています。白という、色の深さやとうの秋と。いうなら、白という色ほど、まあいうならへんてつもない色、ね、変わりもない色。赤とか紫とか緑とかとこういうのはね、そこにはっきり色を感ずるんですけれども、白というこの色ほど、まあ変哲のない、同じけれども、その白という色に本気で取り組んだら、また白ほど深い色はないという意味なんです。なんにもない、ね。なるほどジュースもおいしい、お酒もおいしい。味があるから。けれども本当いうたら、水の味わいほど深いものはないのです。 先だってから、んー今、十三代の柿右衛門。十二代というのが大変名人で大変有名であった。その、柿右衛門の、以前はあの、柿の色というのが柿右衛門の、いわば独壇場と言われたのが、十二代あたりからは、この白というのが柿右衛門独特なものだと言われてきた。いわゆる濁しでというて、ちょうどお米のとぎ汁のような色をしておるという、ね。濁しでという、白なんですけども、それが実際に白というのが側にあると、全然違った趣がある。濁しでという。ね、いうなら白磁という、の、ね、陶器類の、白の白磁という。白磁の色でもなからなければ、あーでない、その乳白色というか、濁しでという色、まあ何ともいえん、やわらかい味わいを持っておる。その十二代の柿右衛門が、あのこれは親戚だけに、何かご仏事の時に、その送ったという、その中皿です、この位ばっかりの、皿を十客分お供え頂いた。私はそれは、裏にちゃんと十二代柿右衛門の名が入って、はあ素晴らしいものを頂いた、これが濁しでというのかなというて、申しましたら、いいえ、これは白磁でもなからなければ、あの濁しででもないという白なんです。もう何の模様もない、いわゆる白の皿なんです。ただ、裏に柿右衛門の名が入っとるから、はあ、これが柿右衛門かと思う位。 それは、白磁でもなからなければ、今言う、柿右衛門独特の濁しでの白でもないという。その、あいの白というものを、まあ試しに作ったのか、なんか知らんけれども、そのあいの色だといこう言う。白と濁しでのあいの色。なんともいえん、やはり白です。というようにですね、そういうその、私は教祖金光大神が、形がのうなったらきてくれというところにいってやるとおっしゃるようなそのお言葉は、そういうような頂き方をもうしたら限りがなかろうと思うです。また事実、限りのないおかげを頂けるんです。それを信じて、教祖生神金光大神を唱えるところに、なるほど天かけ陸に限り、どこででもお働き下さるんだ、お取次下さるんだという、事実はいよいよ感じられてくるようになる。ね。だから金光大神の信心は、ちょうどその白の色のようなもの。頂きようでは、白磁も、頂きようでは濁しでにも、ね、頂きようではその濁しでと白磁のまた相中の色というような、微妙な有り難さというか、味わいというものを頂くことができるのが、私は金光様のご信心だと思うですね。

 今朝方私は、お夢を頂いて、私が北京におるようである。で北京から内地に帰ってくるような感じ。それに、お土産をなんかこう、まあとう、東亜市場という有名なあの市場がありますが、そこにお土産を買いにいっとる様な感じ。そいでもうお土産も色々買って、もうお金もだいたい持ってた金も使ってしまったところへ、あのもう本当に人の良さそうなおばあさんが、これをぜひお土産に持って帰れとこういう。ところがお金がない。何かというと卵である。いうなら変哲のない、どこんでもあるという、卵。これは特別に、あの元気のでる卵と、これを頂いたら。だからこれを頂いて帰れと。私ともう1人誰か連れがあるけれどもそれは影のようにしてだれやら分からない。ところがあの、私がもう使ってしまってお金がないからと言うたら、内地へ帰ったらね、内地から送ってくださいとこういう。日本から送ってくださいと、お金を。したら私の影の人が、あ、そんなら私がもらおうちいうてから、金ださんでもらいよるもんだから、そのたくさん卵をもらい、なら、まあそれでよかならというて私も、しかしまあなんていうばかんごたる人じゃろうか、もう北京、シナから日本、もうそのまま私が帰ってこなかったら送らなかったらわざわざ取り来るわけでもなかろうのに、まあなんという人の良い人じゃろうかと、私も思いながら、それでもこういう人じゃけんひっかけちゃならん。まあ内地へいったら送らじゃというような思いでね、そのお土産に卵をたくさん買わしてもらった。私の影の人もやっぱりこうた。誰かがわからん。
 
 そしたら、私がもう今度内地へ帰ってきとっところへちょうど草野の発心公園の上り口のところを、私は、あの草野の人たちは、んーお客さんがあるといやあ発心、それでなかったら祇園社、また千念寺、もうこりゃ草野の三名所になっておりますから、それこそ変哲もないところですけれども、やっぱり案内をいたします。案内をするだけじゃない、たまたま帰ってくると、いっぺん発心に登ろうかというて、発心というところは草野の町の人たちはもう、大変いうならあの、まあいうなら心のふるさと的な、まあ場所であります。そして発心からこう下りてきて、祇園社、千念寺をお参りさせて頂いて、まあ帰る。まあそんなことからでしょう、その発心の入り口からこう、発心に上ろうとしておる、ところがです、私の行ってる前を、北京でその、卵を買ったそのおばさんが、やっぱり卵を持って前を歩いてるんですよ。あら、北京での卵やさんだと。そして私が心の中で思いよる。はは、ここでこの人に合うたら、金ば払わんならん。おかしな話ですよね。もう心の中じゃ、もうひっかけようと思うとる。私は夢が覚めてね、ほんとうに人間というものはこんなもんじゃなかろうかと。例えば金を借りる、催促はしない。もうそれが十年にも十五年にもなるとです、もうそれは、払わんでよか、いや、もう払うとに惜しみがついてくる。ね、ずーっとやあやあいうて催促されると、催促される、いわば、術なさです、はよう払わにゃ、はよう払わにゃとこう思うのですけれども、それが金利もつかなければ、いうなら信用があって借りとるとじゃけん、本当いうたら、はよ、というのですけれども、相手がしらん顔しとる、全然催促もせん、で対してなら楽でもないというならです、いや、それをもう払わんでよいもののようなこの、人間の汚さというものはそういう風なものがお互いの心の中にあるのじゃないだろうか。私はその、おばさんという、人の良さそうなとこういう、それは、私は神様だとこう思う。ね、卵をこれは元気が出るというのはです、ね、いわゆるあの卵のお知らせは、元気、元気を出せという時にお知らせ頂くですけれども、ね、卵ども頂いて元気を出してしっかり信心せよと。お金はいつでもいいと、言われたからお土産に持って帰ったが、そのおばさんはもう私のおるところの前を通っておる。神様はいつも私と共にあるのである。そして、払えとうて催促されるわけでもなからなければ、ね、払うなと言われるわけでもない。おかげを下さったからというて、なら恩にきせなさるわけでもなんでもない。だからこのへんのところをいい加減にしようと思うたら、どんなにでもいい加減にできるのが信心。ね、金光大神は形がのうなったら来てくれというところに行ってやるとおっしゃるが、ほんとと思やあほんと、嘘と思やあ嘘。もうこれほど疑わしいものはない。

 昨夜の御祈念の後、昨日は末永先生が当番でした。御祈念の後に、御理解を。毎日毎日朝目を覚ます時に、今日こそは今日こそはと思う。今日こそは本気で信心になるぞと。今日こそはこの教えをひとつ本当に頂きぬくぞと。目が覚めたとたんに思うとこういう。けれども1日しめくくってしまう、なら例えば昨日なら、自分が御神前で御祈念をしておりますから、その御祈念の中に1日のことを思うてみて、ほんとに目が覚めた時に思うたものはどこえやら、1日をまた失敗に終ってあいすまんことだという話をしよりました。私はこっからそれを聞かせて頂きよったらご神願に、『あの深いこのざるですね、あの竹篭でつくったあのしょうけです、ざる。そのざるを、ざぶっと水の中につけたところ』を頂いた。お互いでも、ね、こうやって御教えを頂いておるが、どれほどのことを実行させて頂いておるだろうか。ね、
 
 昨夜も御祈念が終ってから、下へおりましてから、内々のものと話したんですけれども、みんなはどうだろうか、あの五つの願いを覚えたか、五つの願いがもう御神前に拍手して向こうたからには、どういう時であってもこの五つの願いだけは、しなければいけないぞ、夕べ愛子が具合が悪いというて、御祈念に出てきてなかった。家内に申しました。家内、お前に責めるのじゃないぞ。また愛子を責めろというわけじゃないぞと。けれども親として頼まなきゃいけないぞと。ね、体が悪い、体が悪い、腰の骨がこうやってねじれてるんだそうですね。ですからそれでそれが痛むんだそうです。で昨日も1日、いうならば久留米に遊びに行ったわけじゃないでしょうけれども、お茶のけいこかなんかで遅う帰ってきて、だからそういう遊び、どうでもいいようなことにまでいわば1日を費やしておる愛子がです、夜の御祈念に出て来られないということがあるもんか。ね、それだから、どうして出てこんかというて責めちゃならんけれども、ね、せめて夜の御祈念には出ておいでよそして、この五つの願いだけはさせて頂いて、そして休むなら休ませて頂けと、お前が愛子に頼まないかんよち。それは、ね、愛子自身もおかげを頂かなければならないことだから。というて参り合わせた人たちも一緒にその話を聞いてもろうて、まあこちらへ下がってから御祈念が終ってから、ね。

 私は今度の報徳祭に思うた。私がこの、記念祭からこちらの信心、そしてとりわけあの五つの願いを言い出してからのことですから、とにかく1人参るなら絶対10人位は参らなきゃならんのだ。ね、頼んでから誰にでもかれにでも。それこそ、例えば報徳祭といやあ、例えばお店をしとるならお店は、1日休日にしてからでも、参らなきゃならんほどしに私は毎日毎日みんなに頼むよ、頼むよじゃなく頼んでおるわけだ。もう今度はお広前が、新館もいっぱいになるだろうと思うとるぐらいだったのが、そうではなかったじゃないかと。いかにね、私のいうことを聞きよらんかということが分かるじゃいなかと。そんならまず、家庭の者が、まず私のいうことを聞かずして、信者がどうしていうことを聞くか。まず手元から、まず足元から。しかも、もう私がここんところを願うていきゃあ絶対と言っておる。けれども、いくら絶対というても金光大神(?)。ね、先生はああおっしゃるけれども、本当にそうだと、もう一番素晴らしく実行しよるとはもう合楽食堂の中村さんくらいのもんじゃがちいうてから話したことでした。もうこの人たちなんか、毎日そのことのお届けをするんです。この五つの願いの素晴らしさ。
 先日なんかは、ああしかも家族をあげてそれをいうておるということが素晴らしか。先日も電話がかかってきた。お母さん、あの五つの願いは、それもあの、徹美さん長男の、はこの頃青年会の時に私の話を聞いただけです、毎日はききよらん。けれどそのことが素晴らしいことを帰って、もう今日は有り難い素晴らしい、これからの信心はこれでいきゃあいいばい、お母さんというて、帰って、また福岡から電話をかける時に、お母さん、あの五つの願いはしよるか、あの信心はできよるかというて電話をかけてきた。いやあもうこちらでもしっかり、この頃は弟達も、夫婦2人で夜の御祈念だけはならそこが受け持って、お参りをさせて頂きよるよ、お母さんも昼の御祈念だけには必ず1回、よ、あれからお参りするようになったよというて、まあ電話で話し合ったとこういう。
 ね、先日も電話がかかってきてこれはもうほんとに広大なおかげを頂いた。なんか高い機械の上にのぼっとってコンクリの上に落ちた。それがお母さんもう本当にかすり傷一つしなかったと。日頃頂いておるこの御教えに本気で取り組んでおるおかげだというて、電話がかかってきたというてお届けをしておりました。だからいよい私が、そうだな、今合楽で一生懸命取り組んでおるというたらもう、んー中村さん一家くらい、もう取り組んどるならあくる日ここでお届けせなんはずですもん実際は。体験が生まれてくるから。ね、自分1人じゃたらんなら子供にも、自分1人でたらんなら親にも。ね、頼んでからでも、といわれてる。そういう時に、例えばこの頃の報徳祭、そういう信心が、内容であってたらとてもとても、ね、仕事どん休むくらいなことじゃあない、誰にでもかれにでも頼んでからでもお参りしなければおられないほどしの、お祭に、りではなかったではないかと。果たしてみんなに、遠いところにおる、子供やら、兄弟たちやらにでも、通知くらいしたじゃろうか。頼んどらん、その証拠に今度は電報が全然こなかったじゃないか、祝電が。
 ね、私は昨日、そのことを久保山さんに話した。あることから話が出ましたから、この頃しげるさんが参ってこんから、連鎖反応おこしとっとじゃあるめえの、ああた方の兄弟たちは。ご大祭だというのに祝電も打たなかったが。ただ、来たのは、それこそ、それこそあてにもしとらない高山さんがたん、息子達夫婦だけだった。大阪に今いっとる。ね、それこそ壱岐、四国、もう全国から、例えば大祭といやあくるがです、ね、今合楽ではこういうことを言われとる、こういう風に手紙の1本もだしておらんのじゃろうか。とにかく守よらん証拠だというわけなんです。ね。
 いうなら、末永さんじゃないけれども、頂いておる御教えを今日こそは、今朝、ね、け、今日こそはと、例えば朝目がさめるとそれを、もう思うけれども、いわゆる実際は行の上に現すことができていないことであいすまんということを、昨日お話みなさん聞いて頂いとったら、(?)のご心眼にその、籠を頂いた。しかもその籠はね、水の中にザブーっとつけておるところ。だからね、それはどんなに例えば御教えを行じていなくっても、ね、いうならば、あー信心生活ができていなくってもです、合楽にご神縁を頂いておるという、合楽のお恵みの水の中につけてさえおけば、やはりいっぱい水はあるんだということ。ひきあげた時がただ、水がないだけのことで、ね。だから信心の徳というのはです、それこそ水ももらんさんほどしの信心をさせて頂いた時に、初めて自分の信心、または神様の御信用と言われるお徳が受けられるのです。もうここを離れたら、いうなら水気もない。ね、ここにおる間はお水の中へこうつけておる。ね、だからそれでもよいけれどもです、ね、信心させて、それけん私は、昨日お釈迦様のお言葉の中から引用してその話をさせて頂いた。
 「信心浅けれども、本願深きがゆえに、頼めば必ず往生す」という言葉がある。ね、信心は浅いけれども、ね、本願が深い、いつも中村さんがお話される、ね、いわゆる四十八願です、いわゆる如来さまの願いなんです。ね、それを四十八願を一口でいうと、いわゆるそれが如来様の本願、いうなら神の願い、神の本願。神様の本当の願いというものがです、それは大変な深いものである。だから私共の信心は浅いけれども、頼めば必ず往生する。これは、いわゆる親鸞宗ですね、いうなら。ただ、南無阿弥陀仏を言うただけで助かるんだ、往生ができるんだ。けれどもこの位また、疑わしい言葉はないですよね。そうでしょう、金光大神が形がのうなったら来てくれというところに行ってやるとおっしゃるのと同じことです。金光様といやあここに金光様が来てくださる。ね、どんなに悪人であっても、頼めば、どんなに信心が浅かっても、ね、頼めばそれは本願が深いから、神様の願いというものが深いから、大きいから、頼めば必ず往生するというのである。だからこれもまた疑わしい。死んだ先に往生する、どげな風なよい往生するかしないか分からん。疑えば限りがない。ですから私共は日々こうやって、現世にあるうちにです、ね、信心のおかげを頂いて、おかげを受けると同時に信心の喜びをいっぱい心の中に頂かせてもろうて、なるほどこの喜びならば、魂の世界に入っても、もっていけるぞと思えれるくらいの、私は信心をしなければいけないと思う。
ね、それにはどうでも、いわゆるその本願に添わなければいけない。神の願いかに本当に添わなければいけない。ね、その神の本願に添わして頂くという、ね、氏子信心しておかげを受けてくれよと例えば願いすがりさせて頂くところにです、ね、おかげが頂けれる。それが五つの願いである。
 頼めば頂けれるおかげ、それはお金もいらんと言われる、もういつかあんたが内地に帰って送ってくれと、ね、私の夢の中で。ほいでそん時には確かに送ろうと思いよる。私の影の人が買いよる人は、それは私が感ずるのに、もう初めからひっかけようと思いよる。もう送ろうと思いよらん。けれども私は送ろうと思いよる。けれどもそこにはもう時間がたっておる。実際目の前に、私の前を歩いておる。発心の坂ということはです、やはり発心するという意味であろう。信心させて頂く者が、ほんとに五つの願いに徹しきらせて頂こうと例えていうなら、発心する。そういう発心させて頂いておる私がです、ね、払わねばならない人が前におると、あた、これゃあ顔をあわせると妙なことになる、というようなことを考えよる。いわば誤魔化しゃ誤魔化されるとこう思いよる。まあなんと、不徹底な心であろうか、末永さんならずとも、私共でも本当にそんなもんだなとこう、お夢頂いて、そう思うのです。ね。

 教祖様は、ね、形がのうなったら来てくれというところに行ってやると仰せられる。それを、体験、同時に教祖様が教えてくださることをです、ね、本当に行じさせて頂いて、お徳を受けていくという世界に入らせて頂く時にです、白という色の深さや とうの秋、もう限りない金光大神様のこの言葉を、有り難いと信じ、有り難いと分からせてもろうてです、どこまでも深めていけれるのが教祖様のこのお言葉だと思うです。ね、そのためには、ただおかげを頂いておるというだけ、信心あさけれどもという、浅い、あいだけではつまらん。そこから、一歩一歩深さに触れていかなければならない。浅くてもそれは神の願いが大きいから深いから、ただ頼めば往生できるというおかげを受けられるというだけに留まらずに、ね、教祖金光大神が教えて下さるそのことを、本気で行じさせてらう、本気でおかげを受ける、お徳を受けるすていくところにです、金光大神のこの言葉のいよいよ意味の広さ深さがです、分かってくる。ね、願えばおかげになる。それは神の願いが、深いからである。ね、だからその深い味わいというものをいよいよ味わわせて頂くためにはです、ただ願っておかげを頂くだけではなくて、頂く教えを行じなければその深さにいよいよ触れ行くことということはできない。ね、私はみなさんがいくら分からんでも分からんでもです、ね、またその話と言われるくらいに言うだろうこれから。五つの願いはどげな風になっていきよるかと。ね、本気でそのことが家族をあげて願えれるならばです、もう日々そこからさらな体験が、それこそ中村さんじゃないけれども、本当にこの御教えの素晴らしさにと、恐れいっての御礼ができなければならないはずだ。
 その話をしよりましたら昨日、若先生が、今日中村さんからお届けがあったがやっぱおかげ頂きますよち。息子がある、あのしゃかんの仕事をやっておる。それを百何十万というて、その猫ばばされる一歩手前で、そのおかげを頂いておる。おかげでひっかからんですんだ。もうそのへんの神様の働きちゃもう恐れ入ってしまうというお届けが、若先生が受けたということを夕べも話しておりましたがです、そういう日々生き生きとした、なるほど神様のご守護の中にあるんだなということをです、感じんわけにはいけん、いよいよ信心の広さ深さ、なるほど親先生の言われる言葉の広さ深さをです、みなさんが体験して頂くことが、合楽で信心しておかげを受けるということだと私は思いますですね、どうぞ。

池尻 てるか